さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

ちょと気になる歴史上の人物紹介のコーナー・・・。

 みなさん、こんにちは。

 

 午前中、車を修理工場をしてる親戚のおじさんのところに持って行きました。

 オイル交換と、タイヤの空気圧、そしてバッテリーの状態をチェックしてもらうためなんですね。

 よりによってこんな年末の29日になったのはおじさんの方の都合で、昨日役所が仕事納めだったようなので、車検など役所絡みの仕事が終わってからにして欲しいっていうのが理由なんだそうです。

 で、10時前におじさんのところに到着したんですが、おじさんの修理工場ってダイハツの代理店やってたんですよね。

 入口にダイハツの看板がド~ンと立ってましたよ。

 今まであまり気にしてなかったんですが、今はタイムリーなのでやけに目についちゃって・・・。

 で、すぐに作業にかかるのかと思ったら、どうやら他にもいっぱい仕事を受けてたようで、私が到着した時「しまった!」って顔をしてました(笑)。

 忘れてたんでしょうね。

 まぁ、そんなことは私には関係ないことなので、「ええっと、オイル交換と・・・」って感じで要望を伝えたら「こ、この車貸してあげるから夕方まで待って・・・、この車をどう使ってもいいから・・・」とか言い出す始末。

 別に、急いでたわけでもなかったし、最近の軽自動車はどんなもんか乗ってみたいような気もしたので、笑顔で了承したのでした。

 で、その後、ちょっとだけ立ち話をしたんですが、やっぱり今回のダイハツの不正はこんな末端の販売代理店でも響いてるようで、先日も納車直前でキャンセルになり、普通ならそんなことまかり通る話じゃないんですけど、今回は仕方なく応じたそうです。

 それも1件だけじゃなかったそうで、随分くたびれたような顔で話してましたよ。

 どっかで聞いたんですが、今回は役所への報告がおかしかったので、きちんと各試験を行い、報告しなおせば早い段階で行政処分は解けるんじゃないかって話を慰めがてらおじさんにしたんですが、当然私のようなにわか知識ではなく、実際にメーカーと話をしてるおじさんは疲れたように首を振ってました。

 素人でもわかるような虚偽の報告をした以上、「あっ、間違えちゃった!こっちが正解で~す!」って感じで訂正してもかんたんにはゆるしてくれないだろうと・・・。

 少し前にも書きましたが、こういうメーカーの不正が明らかになると、部品などを作ってるところや販売を担ってるところ、いずれも小規模の事業所やお店が多いんですが、そこがしわ寄せを食いますね。

 いくら補償も考えてるって言われても、未来永劫補償してくれるわけじゃないんだし、いくら補償してくれるのか?そもそもホントに補償するのか?もわかりませんからね。

 こうして実際に被害に遭ってるのを見てしまうと、余計に腹が立ちますね。

 あ~、夕方車を取りに行くんですが、気が重くなっちゃいますよ。

 

 さて、年末ということでちょと気になる歴史上の人物紹介のコーナーです。

(今思いついた)

 で、今日取り上げるのは山中鹿之助幸盛。

 尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名な人です。

 このことから忠烈無比の人物として江戸時代から昭和初期にかけてプロパガンダに利用された人物でもあります。

 七生報国で有名な楠木正成と同様ですね。

 でも、こうした取り上げ方は、基本的に後世の人たちにとって都合の良いように語られてるだけで、実際とは少し違うような気がするんですよ。

 確かに鹿之助は第二次月山富田城の戦いで尼子義久が降伏した後、諸国を放浪した後尼子勝久を奉じて三度にわたる尼子家再興作戦を行っています。

 一度は捕えられてしまったものの、厠(トイレ)から逃亡し挫けることなく再び尼子家再興のために戦い続けます。

 あ、トイレって、もちろん現代の水洗トイレじゃないんですよね。

 所謂ぽっとん・・・、なので肥まみれになりながらの逃亡。

 しかもその時警備にあたっていた者を軽く殺害しての逃亡。

 す・・・、すごいでしょ。

 で、最期は織田信長の庇護を受け羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の中国攻めの先鋒として上月城に勝久と立て籠もるも結果的に見捨てられ城は落城、勝久は自害、鹿之助は再び捕らえられ毛利輝元の素へ護送中に殺害されました。

 まだわずか34歳だったそうです。

 この人の生涯は尼子家の家臣として毛利氏と戦い、主家滅亡後は再興を目指して戦い続けただけのものでした。

 で、歴史上その忠義を真っ先に評価されたわけですが、私は別にそんなに特別な忠誠心を持っていたとは思っていないんですよ。

 それよりも自身が武勇に優れていたこともあり、根っからの戦好きだった、つまり典型的な戦国武将だったんじゃないの?って思ってます。

 逆に言えば平和な世では生きづらい人だったんだろうって思うんですよ。

 ただ、主家滅亡後、各地を歩く中でその地の軍法を学ぶことはあっても仕官することがなかったのは彼自身が尼子一族に連なるものだったからだと考えています。

 もちろん先祖をずっと遡っての話なので、彼自身が尼子氏を継ぐことはできないし、何より尼子再興を願う人たちが認めなかったんだろうと思っています。

 他家に仕官するわけにもいかず、自身が当主になるわけにもいかないとなれば、おのずと主家に縁近き人を奉じて立つしかありませんよね。

 それに、今も昔も再興のための闘いって萌えるでしょ!

 それが困難であればあるほど鹿之助みたいな人はタギル!ってなもんなんだろうと思うんですよ。

 そして、これは歴史を見てよく思うんですが、今のように将来何をしようかなぁ?なんて選択肢がなかった時代ですからね。

 極々限られた選択肢の中から選んだ道を遮二無二進むしかなかった時代。

 その中でも鹿之助はその意志が抜群に強かったんでしょう。

 まったくブレることがありませんからね。

 そして上月城が落ち、勝久が自害した後も護送されながらどこで逃げちゃおうかな?とか今度は誰を担いで戦おうかな?なんてことを考えていたのかもしれません。

 そういうあきらめの悪さもこの人のすごいところですからね。

 こんな漢がゴロゴロいた戦国時代。

 そりゃあ、我々もタギルってもんですよ。

 

 

 

 

 コメントやブックマーク、ブックマークコメントを頂き、ありがとうございます。

 とっても嬉しいです!

 今後とも、よろしくお願いいたします。