さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

747 私は諸葛亮孔明が好き・・・⑦

 みなさん、こんにちは。

 

 五丈原(ごじょうげん)とは、陝西省宝鶏付近の渭水南岸にある秦嶺山脈から突き出した台地に広がる原野である。最も幅が狭い所が五丈(約10m)しかないことが語源であるという。(wiki選手より)

 Googleマップでもはっきりわかります。

 渭水が東西に流れていて、支流が南に分かれている分岐点。ちょうどT字に見える川の左下のあたりに支流に沿ってなんだか舌のような形の台地があります。

 ここが第五次北伐で蜀軍が陣を築いていたところ。

 そして、諸葛亮孔明がその生涯を終えたところ。

 234年の2月に開始された第五次北伐は、この五丈原に陣を張り、麓の田畑では屯田を行って、持久戦に備えたものでした。

 で、この五丈原へのルートっていうのは、第一次北伐の時に趙雲が囮として進んだルートで、過去の北伐の中で最も長安に近いルートなんですね。

 西方の憂いを無くし、兵站ルートの安全性を確保し、さらに屯田による食料調達の恒久性まで図ったうえでついに大勝負に出るのか孔明!って展開なんですが、たぶんこのころの孔明って疲れ切ってフラフラだったんじゃないの?って思うんですよ。

 なにしろそんなの部下にまかしておけばいいじゃん!って言いたくなるほど細かな決済も自分でやってたそうですし、あまり寝ないし食べないし。

 それでも今さら止めるわけにもいかないし、あわよくば長安までは攻略しておきたいし、いや、そこまでできなくてもせめて司馬懿を・・・。

 で、その司馬懿ですが、孔明の持久戦に対する備えを見て、実に嫌な位置に陣を張ります。

 先ほど五丈原の位置を川の流れをT字に例えてお話しましたが、T字の左下の五丈原に対してT字の上のあたり、つまり渭水の北側に陣を張ればとても安全なんでしょうけど、司馬懿はどうやらT字の右側に陣を張ったようで、渭水の支流を挟んではいるものの、五丈原からとても近いんですね。

 そして、それほど近くに居ながらカメのようにうごかない戦法をとります。

 おそらく孔明渭水の北(T字の上)のあたりに魏軍は人を張ると予想し、司馬懿が陣を張ったT字の右側辺りを決戦の場と想定していたと思うんですね。

 川中島の戦いの八幡原みたいなものです。

 ところがその距離を司馬懿に潰されちゃったものだから、動くに動けなくなっちゃいます。

 張飛みたいに脳みそ筋肉系の武将なら、敵が近くに来たのをこれ幸いに行っちゃえ~!と何も考えずに攻め込んじゃうんでしょうけど、蜀軍にそんなことをする余裕はありません。

 ですから、敵の動きを察知してその先をよみ、決戦場へ誘導してこれを叩くっていうのがしたかったんでしょうけど、そういう策をめぐらすための空間を潰されちゃったんですね。

 これには孔明もビックリしたことでしょう。

 司馬懿っていうのは、いざ決戦となった場合、孔明に勝てるとは思っていなかったんでしょうけど、孔明が嫌がることについては抜群に理解が深い、何とも嫌な男なんですね。でも、自軍を全うするという観点で見れば、実に優れた司令官なんです。

 前回お話したように北伐は兵站と撤退戦っていうのがキーワードなんですが、これは蜀の問題点でもあったので、これを改善して臨んだ以上、撤退する理由がないんです。

 ですから、それで誘い出すわけにもいかないし。

 かといって戦機が熟してもいないのに会戦に訴えるわけにもいきません。

 蜀軍はいくらでも兵の補充が効く魏軍とは違いますからね。

 もう、孔明としては八方ふさがりな状況になっちゃったんでしすよね。

 そうこうしてる間に時間だけが過ぎていき、自分の余命がもう残りわずかだと悟った時、孔明は何を思ったんでしょうね。

 キーッ!司馬懿のヤツ!超むかつく!!!とでも思いましたかね?

 それとも、米を量るマスが痛んでいたから替えておかなくっちゃ・・・、とかなんとか思ってたんでしょうか?

 私はなんとなく、劉備が生きていたころのことを思い出していたんじゃないかと考えています。

 そして、返す返すも劉備夷陵の戦いに行かせるべきではなかったと。

 龐統や法正の死により孔明の負担が増え、関羽の死と荊州の喪失で国力の低下と戦略の幅が縮小しちゃったことも悔やまれますが、やはり劉備がいてくれたらって思ったんじゃないでしょうか?

 あ~、こんなことなら献帝が死んだなんて言わなきゃよかったな~!

 あの親父(劉備のこと)、関羽が死んだとき、漢中王から皇帝に昇ることで一時は落ち着いたんだけど、皇帝になったらなったでやけに強気になっちゃったんだもんなぁ~!あの親父(あ、劉備…)がいてくれたら囮に使ったり、猛獣みたいな連中(武将達)を宥めたりしてくれたのになぁ~!

 もう、全部ひとりでやるなんて、できるわけないじゃん!!!

 ・・・、こんな感じ。

 でもそれよりも、孔明にとって劉備は数少ない愚痴を聞いてくれる存在だったんじゃないのかな?って思うんですよ。

 人前ではいつも涼し気に知的なトークを展開していた孔明ですが、愚痴の一つや二つ言わなきゃやってられないこともあったでしょう。

 今日もまた張飛が勝手なことをした!関羽は偉そうに酒飲んでるし、趙雲は素直なんだけど関羽張飛に気を使ってるし、黄忠は年寄り扱いすんな!って拗ねてるし、馬超は鎧と槍と馬にしか興味なさそうで人の話を聞かないし。あ、その馬超って錦馬超とか言われてるって聞いたけど、俺は地味で嫌味なインテリ野郎って言われてるみたいだし、もう、やってられないんだけど!

 とか言ってたんじゃないのかなぁって思うんですよ。

 すると数日後には何となく問題が解決してるような感じ。

 猛獣使いが仕事をしたのかもしれません。

 まぁ、どうなのかわかりませんが、五丈原の陣ではもう打つ手がなくなった以上、残る武将達には一つだけ指示を出しておけばいいわけですから、寝台に横たわってる間くらい、楽しかったことを考えさせてあげてもいいじゃないですか。

 その一つだけの指示っていうのは、自分の死後撤退するにあたって、この時ばかりは司馬懿が出張ってくると思われるので、必ず討ち取るように細かく命令していたと思います。

 もはや正面突破も、計略も受け付けない魏軍に対して、せめて有能な将だけでも減らしておきたいってことぐらいは考えたと思います。

 もっとも、これも空振りに終わっちゃいましたが・・・。

 夏の暑さが少しずつ和らいで、五丈原にもようやく秋が訪れようとしていたころ、孔明の病状はにわかにあらたまり、枯れ枝が朽ちて折れてしまうようにその生涯を終えてしまいます。

 飾り気のない装い、公平な判断、全身全霊を北伐にかけていた姿、どれをとっても蜀の兵士にとって孔明は信仰の対象ですらあったのかもしれません。

 孔明は自分の死後の蜀について、それほど禍々しい遺言はしていなかったんでしょう。

 何と言っても劉禅はバカですからね。

 それよりも、数年にわたって鍛え上げた軍そのものが蜀を守ってくれることを願っていたんじゃないかと思います。

 あ、ひょっとして、あの親父(劉備…)ほどじゃなくてもいいけど、もうちょっとまともな後継者っていなかったのかよ!とは思ったのかもしれませんね。

 

 

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