みなさん、こんにちは。
第一次北伐が街亭の戦いでの敗北から全軍撤退という無残な結果に終わり、馬謖は処刑され、孔明自身も丞相の職を辞し3つ階級を下げることになっちゃいました。
それでもくじけず孔明は第二次北伐をすぐに始めちゃいます。
前回の反省をもとに、今回こそはスムーズに侵攻したいところです。
何しろ、敵の中で孔明と互角に渡り合えそうな男は司馬懿くらいなものですが、その司馬懿の上司には魏の皇帝一家である曹一族の曹真が君臨してるので、司馬懿の好きなように戦える状況ではなかったんですね。
鬼の居ぬ間に洗濯ではありませんが、魏の体制が整わないうちに攻め込んじゃうのは、その備え無きを討つということで重要なことなんですよね。
ところが初っ端の陳倉城攻略に手を焼いてしまいます。
守将の郝昭はこの陳倉城の籠城戦で名を馳せた人物ですね。
城方の兵力は1000人くらいだったそうですから、数万の大軍で攻め落とせないとは孔明どうしたの?って感じですが、基本的に攻城戦っていうのは名将の類でもなかなかうまくいきませんからね。
得意だったのは秀吉くらいでしょうか?
で、そうこうしてるうちに魏の大軍がやってきちゃったので仕方なく撤退。
この撤退戦で、孔明は伏兵などを使い王双という魏の豪傑を討ち取ります。
この王双っていう人もこの討ち死にで名を馳せた人ですね・・・。
三国志後半はいささか登場人物の扱いが雑な気がするんですが・・・、まぁ、いいでしょう。
まぁ、その後西の方の都市を2つくらい掠め取って第二次北伐は終了します。
第三次北伐ははじめ魏の方から攻め込んでくるんですが、これは長雨の影響で頓挫します。
その虚を突いて孔明出陣!
でもなぜか西の方の涼州の方に攻め込んじゃいます。
主に魏延が活躍したそうですが、ほどほど暴れて撤退しようとしたら、魏の郭淮軍と遭遇戦になりこれを撃破!でも漢中に撤退します。
思うにこれは長安攻めに当たり背後の憂いを絶つための出陣だったような気がします。一つにはどうしても兵站、補給ですね。これがどうしても改善しませんでしたからね。攻め込む側はどうしてもこの兵站を考えなければなりません。
そもそも北伐はこの補給問題が最後まで解決できなかったんですね。
もちろんこれは魏の守り一辺倒な戦術の成果でもあるんですが。
で、第四次北伐は木牛なる一人用の押し車を用意してやる気満々で孔明出陣!
ところがこの時から魏の司令官が司馬懿になっちゃいます。
その前の司令官だった曹真も消極的でしたが、司馬懿に至っては完全に亀になっちゃいました。
挑発しても何をしても動かない魏軍に対して、蜀軍は攻めようがなくまたもや撤退。
と、ここで司馬懿が動きます。
司馬懿本人は気が進まなかったんでしょうが、将兵が我慢できなくなっちゃったみたいで、しぶしぶ出陣。
で、またもや撤退戦で孔明はこれを撃破!
いよいよ、攻勢をかけるときが来たと思ったら、兵站を預かる李厳がもう無理だよ~!って言ってきちゃったので、仕方なくホントに撤退。
で、またまたまたもや撤退戦で魏の名将張郃を討ち取っちゃいます。
ちなみに補給は無理!って言ってた李厳ですが、実は自身の怠慢を隠すためにウソをついていたことが後に発覚し、身分が庶民になっちゃいました。
この人、劉備が臨終のとき孔明と一緒に後を託された重臣なんですけどね。
何をやってんでしょうね。
ただ、この李厳の怠慢は単に彼一人の問題ではなかったと思うんですよ。
これまで4度の北伐をほぼ毎年のように莫大な費用を費やして行ってきましたが、大した成果が得られていませんでしたからね。
そろそろ蜀も疲弊し始めてたんじゃないかと思われます。
そこでわれらが孔明は第五次北伐を行うにあたり、屯田兵の制度を用いることにしました。
これは戦地でも兵に農民と一緒に畑仕事など食料生産の仕事もさせて、長期戦に備えようってものですが、遅きに失した感は免れませんけどね。
司馬懿も大軍を率いてやってきたものの、両軍にらみ合ったまま動こうとしません。
結局そのまま孔明は陣没してしまいます。
で、また撤退戦になるんですが、すでに孔明の死を察知していた司馬懿が珍しくやる気になって、行っちゃえ~!と攻撃を仕掛けたところ、死んだはずの孔明が・・・!
死せる孔明生ける仲達を走らすのくだりですね。
駆け足で第二次~第五次の北伐までざっとお話しましたが、キーワードは兵站と撤退戦ですね。
漢中から関中(長安とかあった地域)への道は昔から険しい道ばかりだったので、兵站線は細長くなってしまうのは孔明もわかっていたはずなんですね。
そもそも北伐はこの漢中からのルートだけでなく荊州からの2面作戦だったわけですから。もっと言えば呉も巻き込んで3方面からの侵攻をもくろんでいたはずです。
それが、よりによって一番道が険しいルートだけ残っちゃって・・・。
そしてそれは司馬懿にも見透かされていましたね。
魏にしてみれば、じ~っとしていれば勝手に帰って行ってくれるわけですから、無理に戦う必要なんてありません。
その必要があったのは蜀の方ですから。
でも、孔明はついに最後まで強引な戦闘には訴えませんでした。
その理由は前にも申し上げたように、軍が壊滅するような負け方をしてしまえば蜀自体が亡くなっちゃうっていうのは当然あります。
そのうえ、蜀には物資だけでなく人、兵員にも余裕がなかったんじゃないかと思うんですね。
それに引き換え魏の方は、まだまだ動員できる兵力には余裕がありました。
では100万でも200万でも動員すればよかったじゃん!ってお考えの方もあるかもしれませんが、そんなことをしたら今度は魏が兵站に悩まされるようになっちゃいます。
別の言い方をすれば万一司馬懿が敗れたとしても、まだまだ継戦能力に余裕があったということです。
物資の補給に悪戦苦闘しながら、兵員の補充など全く期待できない状況で、孔明が考えていたのは何とか魏を動かし会戦に持ち込んでこれを撃破、その後呉に働きかけて2方面作戦を行うっていうもので、この時の孔明にとってこれは窮余の策だったんでしょうね。
兵站に問題を抱えた蜀軍と決戦に及ぶ必要などまったくなかった魏の司馬懿にしてみれば、敵はむしろ味方の不満をどう抑えるのかってことだったんでしょう。
なんか恵まれてますよね!
で、結局動かない魏軍を動かすには蜀の方から動く必要があるわけで、前に出て乾坤一擲の戦いを仕掛けるか、後ろに下がって敵を誘うかになるんですが、孔明が選択したのは後者でした。
項羽であればほぼ100%前に出ていたでしょうし、呂布や関羽・張飛でもチェストー!って突撃を仕掛けたことでしょう。
でも、孔明はそれができなかったんですよね。
その理由は何度も申し上げましたが、ちょと思うのはこれ、劉備がいたらどうだろうって。あと、関羽・張飛・趙雲もいたら。
この場合は戦術の幅が恐ろしく広がりますので、ひょっとしたら前に出て行ったのかもしれません。
現に漢中攻略戦はそのように行われましたから。
まぁ、タラレバですけどね。
しかし、撤退戦で敵をおびき寄せて返り討ちにしちゃうっていうのは、思った以上に難しいものです。
だって、撤退なんてウソだよ~!って知ってるのは指揮官だけで、一般の兵は知りませんからね。
ふ~、ようやく国に帰れるよ~!って思っていたところに敵軍来襲!なわけですから、士気・練度ともに高くなければできません。
この時の蜀軍って、そういう点では魏軍よりはるかに優れていたと思ってます。
毎年出陣してましたし、総大将の孔明はことさら軍紀に厳しい大将でしたからね。
様々な要素が欠けてる中でも、孔明は真面目に彼ができることをやっていたってことですね。
こういうところが好きなんですよね。
投げやりにならないって言うか、生真面目である意味不器用って言うか、なんか、いいでしょ。
少しずつ冷たくなってきた秋風に吹かれながら、破軍星に自らの生涯の終焉を見たときの孔明の胸中ってどんな風だったんでしょうね。
次回はそのあたりを考えてみたいと思います。
コメントやブックマーク、ブックマークコメントを頂き、ありがとうございます。
とっても嬉しいです!
今後とも、よろしくお願いいたします。