さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

719 私は諸葛亮孔明が好き・・・③

 みなさん、こんにちは。

 

 またまた諸葛亮孔明のことを書いちゃいます。

 興味がない人には、ごめんなさい。

 でも、これを書き始めてからというもの、結構私の頭の中で孔明がチョコチョコと動き回るので、書かずにはいられないのです。

 で、今回は劉備の死後の孔明についてなんですが、私はこの劉備の死から孔明自身が五丈原で陣没するまで、この間の孔明が一番好きなんですね。

 その理由は一言でうまく言えないので、これからくどくど書く中で明らかにしていきたいと思っています。

 そういえば、劉備が今際の際に孔明の向かって言った有名な言葉がありますよね。

 「子の劉禅が資質に恵まれていたらこれを助け、もしその資質がなければ君が皇帝となって魏を倒せ!」っていうヤツですね。

 劉備のこの言葉について、その真意は何なのか昔からいろいろな説がありますね。

 本気でそう言ってたのか、あるいはそう言うことで逆に孔明の野心に釘を刺したのか、いったいどうなんでしょうね?

 私は、結構本音で言ってたんじゃないかと思うんですよ。

 それはこの時代の群雄たちの心理として、大業をなすのは己一代に限る!みたいな気分が大きく影響していたと思いますし、高祖の晩年は疑心暗鬼に取りつかれ、功臣を遠ざけ、劉氏一族による支配に固執したでしょ。あんな風になりたくないって思ってたんじゃないのかなぁって思うんですね。

 いずれにせよ、この言葉によって孔明の行く道は定まったことでしょうし、孔明もまた、幼い皇帝を補佐し、自身の描いてきた戦略を貫徹したいその背中をググっと押してもらえたことでしょう。

 だって、大業は己一代に限りますからね。

 ただ、ここでどうしても言っておきたいんですが、おそらく、いや、ほぼ間違いなく、孔明は魏を攻め滅ぼすことなど不可能だって確信していたと思いますよ。

 まぁ、それはそうと、孔明劉備の死後、呉との同盟を復活させ、魏の侵攻を防ぎ、南蛮を制圧した後に5回に及ぶ北伐をします。

 諸葛亮劉備から三顧の礼を受けて出廬したのはおそらく205年か206年のことだと思います。

 で、劉備が亡くなったのは223年と17~18年くらいの付き合いでしたね。

 さらに南蛮を制圧したのが225年の末、北伐を開始するのが228年。

 五丈原にて陣没するのが234年。

 何が言いたいのかというと、劉備と共に過ごした時間が17~18年で、劉備亡き後は11年ほどの活動時間しかないんですね。

 背は高くてもやせっぽな孔明は、年中裸でも風邪一つひきそうにない張飛みたいなのと違い、身体も弱くいつまで働けるのか、常に逆算していたんじゃないかと思います。

 それが劉備亡き後の非常にタイトなスケジュールからもわかりますよね。

 たぶん、南蛮を制圧した時から、もうそれほど長くは生きられないだろうと確信したと思いますよ。

 遠征の後、身体を休めて健康を取り戻して・・・、なんてことしてませんからね。

 この孔明の健康問題(寿命といってもいいのかも)が魏を攻め滅ぼすことがほぼ不可能だと孔明自身が考えた理由の一つ。

 そして最大の要因が周りを見渡してみればわかるように、劉備関羽張飛の三兄弟はすでになく、黄忠馬超もなく、法正・馬良など優れた参謀・文官もなく、出師の表にあげた郭攸之費禕董允・向寵とまぁ魏延がいるくらいでしょうか。

 そして玉座を見ると、野心0な代わりに危機感も0な若者がのほほんと座っているではありませんか!

 こんなん、無理に決まってんジゃン!って言ったかどうかはわかりませんが、この自分の寿命と壊滅的な人材難をもって、孔明は北伐の成功などは全く期待していないにもかかわらず、ほぼ毎年のように漢中から北へ出撃します。

 孫子も言ってたように、古今問わず戦争は膨大なコストがかかり、それを長く続ければ続けるほど国は疲弊します。

 そんなことは百も承知の孔明だったはずです。

 彼が自分の体を労り、守りに徹しながら国を富ませていこうと思えば、あと5年くらいは寿命が延びたのかもしれませんし、国も豊かになり、北伐の頃より充実した軍備を整えられたのかもしれません。

 でも、わずかに寿命が延びたところで、また、軍が充実してもそれを指揮する将が5年や10年の間にそろうとは思えませんからね。

 実際、趙雲をはじめとして劉備と苦楽を共にしてきた経験豊かな武将は年を追うごとにこの世を去っていきました。

 さらに、孔明が世を去って後、29年間蜀漢は存続しつづけますが、最後は実にあっさりと滅亡してしまいます。

 それだけの時間があれば国を富ますこともできたし、人を育てることもできたでしょうに、そうはなりませんでした。

 そういうの、孔明はわかっていたんでしょうね。

 ですから、孔明は攻勢に出るしかなかったんです。

 そして、彼の言葉にあるように「座して死を待つよりは出て活路を見出さん」というわけなのです。

 ヒュ~!カックイイ!!!

 その活路などというものはおそらく見出すことなどできないってわかっているくせに、こう言い放って休む間もなく軍を率いていく男なわけです。

 残酷で非情な運命の力に、自分の持てるすべてを投げうって敢然と挑んでいくひょろっとした男!

 自分の命が燃え尽きるまで、押し車に座って百羽扇をパタパタさせながら全力で走り続ける(走ってるのは押してる人ですが)男!

 いや~、かっこいいですねぇ!

 こういうところ、大好きなんですよね~!

 でも、思うんですよ。

 孔明ほどの才覚はなくったって、彼のようにひたむきに自分の目指すもの、あるいはしなければならないことにその生涯をかけて邁進してる人ってたくさんいますよね。

 日本にも絶対たくさんいますよ。

 男も女も関係なしに・・・。

 ただ、それが本当に必要なところにはいないような気がします。

 金銭欲や性欲にまみれてる場合じゃないと思うんですけどね。

 

 前回、劉備亡き後の孔明の政治や戦術がいささか硬質なものになっちゃったって書きましたが、今回それについて書ききれないので、次回に譲ります。

 特に北伐について、もう少し詳しく書いてみたいと思うので・・・。

 

 

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