さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

805 異質な男、藤原清衡って・・・。

 みなさん、こんにちは。

 

 歴史の中には時折、当時の常識や価値観に囚われない人物が現れますね。

 近いところでは坂本龍馬なんて言うのはまさにそれで、この人はきっと船乗りになって貿易のため世界中を駆け回りたかったんだろうなぁって思うんですよ。

 維新の大業も何もかも、自分のそういう夢を実現するための手段でしかなかったとしたら、当時、攘夷だ!開国だ!と殺し合いまでやってた連中が気の毒になっちゃいますが、彼の瞳の先には遠い異国を船で巡る風景が浮かんでいたような気がします。

 もう少し遡れば戦国の風雲児織田信長がいましたね。

 この人に至っては、逆らうものは何であれ滅ぼしちゃうぞ~!ですからね。

 将軍でも朝廷でも利用できるものは何でも使いますが、これが自分に逆らう様なら容赦しません。お寺なんか仇と思ってんじゃないのってくらい厳しく弾圧します。

 そうかと思うと異国の人を小姓にしたり、異国の甲冑を身につけたりします、

 鉄砲による戦闘が有効だと思えば徹底してそれを使いますし、楽市楽座で知られる免税措置も当時どうやって税を取り立ててやろうかと悩んでいた連中にしてみたら、何のことやらさっぱりわからなかったことでしょう。

 こういう天の配剤としか思えないような人が世に登場するから歴史は面白いんですが、多くの場合彼らは天寿を全うできません。

 まるで、その役割を終えた以上、その後はこの世に無用のものであるかのように非業の最期を迎えますね。

 それらを思うにつけ、何か、こう、ため息が出ちゃうんですが、稀に当時の常識や価値観に囚われず、大業を成し、天寿を全うした人もいます。

 今日取り上げるのは後に奥州藤原氏の隆盛の礎を築いたことで知られる藤原清衡(1056~1128)です。

 いったい何が当時の常識や価値観に囚われていなかったのかというと、この人、大和朝廷に従う気なんかなく、半分独立した政権を作っちゃおうとしていたと思うんですよ。

 時は平安時代の後期です。

 その後の鎌倉・室町・江戸と続く武家政権ができる前の話ですから、当然大和朝廷の威光が全国に広がり続けていた時代です。

 ですから、公家はもちろん、その配下として台頭しつつあった武家ですら朝廷の威光に従うというか、朝廷あっての自分たちっていう認識だったと思うんですよね。

 実際、同時代の有名人に源義家っていう人がいて、源氏の棟梁とか天下第一の武勇の士とか言われますが、結局朝廷内でのゴタゴタに巻き込まれちゃいます。

 戦場では生き生きとしている義家のような武士ですら、この当時はまだ朝廷を威圧することなどできなかったんですね。

 やがて武家が朝廷を牛耳るようになるのは平清盛が登場してからのことになります。

 その清盛に先立って、大和朝廷の支配なんか受けないもん!って思っていた藤原清衡ってすごいと思いませんか?

 この人の国の概念ってどんなふうだったんでしょうね?

 そしてそれは生い立ちのせいなのか?それとも骨肉相争う半生のせいなのか?

 清衡の父親は公家の藤原経清っていう人で藤原秀郷の子孫らしいんですが、まぁ、落ちぶれちゃった貴族です。

 母親は奥六郡(宮城・岩手にあたる地域)の俘囚(ひどい言葉ですが、大和朝廷蝦夷征伐以後朝廷に従うようになった人々)の首領の娘です。

 つまり清衡には一応大和朝廷の貴族と俘囚長の血が流れているってことになります。

 これは後の彼にとってとても重要なことになります。

 で、清衡は前九年の役の真っ最中に生まれたんですが、この時父の経清は俘囚側に寝返っていました。

 あ、前九年の役っていうのは朝廷軍と俘囚長である安倍一族の戦争のことです。

 結果、清衡6歳の時に戦争は安倍一族の敗北で幕を閉じ、父経清は刑死します。

 母親は幼い清衡(幼名清丸・・・、かわいいでしょ)のために出羽の仙北三郡の首領で前九年の役では朝廷側についていた清原氏の当主の息子に再嫁します。

 ・・・、再嫁とは聞こえがいい言い方ですが、要は戦利品みたいなもので、この時の清衡の母親を高橋克彦氏の「炎立つ」ではとっても物悲しく描いています。

 私、この場面に読み進むたびに泣いちゃうんですよねぇ・・・。

 ま、まぁ、いいんですが、敵から奪い取った女の連れ子としての生活が幼い清衡にどのような影響を与えていたのか、考えるだけでもまた涙が・・・。

 やがて清衡が20代後半になったころ、後三年の役が発生します。

 これは清原氏のお家騒動みたいなものですが、当時陸奥守だった源義家が介入してゴチャゴチャになっちゃいます。

 清衡には兄と弟がいて、兄はもともと清原氏で生まれていた真衡。弟は再嫁した清衡の母が生んだ家衡。

 この兄弟による争いが後三年の役なんですね。

 これだけでも憂鬱になりそうな話ですが、兄が早々に退場した後、弟との一騎打ちになります。

 で、この時弟の奇襲を受けて清衡の妻子眷属は皆殺しにされました。

 「炎立つ」の原作では(NHK大河ドラマ版はちょとストーリーが違う)、清衡の母親もこの時亡くなったとしていますね。

 弟に妻や子や母親(弟にとっても母親)を殺害された清衡・・・。

 どう思います?

 私なら打ちひしがれて後追いをするか、心が壊れちゃいますよ。

 でも、清衡は源義家と協力して弟家衡とそれに加勢する清原一族を滅ぼします。

 さらに、源義家の行為は大和朝廷から私闘とされちゃったため、義家は配下の武士たちに私財を投じて恩賞を与えなければならなくなり、陸奥守なんかやってる場合じゃなくなります。

 結局、残ったのは清衡一人。

 そして、この清衡はこの当時清原氏の次男ってことになっていた上に、母親は安倍氏の出身であり、実の父親は一応従五位にまで昇進した貴族で、権威の上で彼に並ぶ者などいなかったんですね。

 こうした経緯を経て、清衡は姓を実父の藤原氏に改め、平泉の地を中心に奥六郡、仙北三郡の支配者となります。

 でも、朝廷からやってきた陸奥守や鎮守府将軍は快く迎えて、建前上は朝廷の支配を受けているかのように見せかけます。

 事実、清衡は陸奥押領使っていう役職にしかついていません。

 官位も正六位ですから、陸奥守より低いんですね。

 奥州の実質上の支配者でありながら、建前上は朝廷からやってくる木っ端貴族の配下のように振舞い、彼らにたらふく贅沢をさせて、奥州の仕置きには口出しさせないようにしていたんでしょう。

 何となくローマのアウグストゥスを彷彿とさせる冷徹な偽善を感じます。

 こういうところに朝廷の威光なんかなんとも思ってねぇよ!って感じがするんですよね。

 藤原四代の栄華を支えたのは、当時大量に産出した金でした。

 朝廷に献上するだけでなく、当然のように大陸とも交易していたことでしょうし、その実態をやってきた木っ端貴族に知られるようなヘマはしなかったんでしょう。

 朝廷に服従するのも徹底抗戦するのも、つまるところ朝廷を脅威と見ているからだと思うんですが、その朝廷に対して表向き従属しているように見せかけながら、全く別の国を作っちゃうっていうのはそれほど脅威と見なしていないからだと思うんですよ。

 それはかつて征服され俘囚などと嘲りを受けたことからくるものなのか?それとも争いにより親しい人々をすべて失ったことからくるものなのか?私にはわかりません。

 ひょっとすると、新しい国造りに没頭していなければ自分を保てなかったのかもしれませんね。

 それくらい清衡の前半の人生は壮絶で悲惨なものでしたからね。

 藤原清衡っていう人物は教科書にはちょとしか出てきませんが、なかなかドラマチックであり、日本史の中では異質な存在なんですよね。

 彼が創業した平泉政権は四代泰衡の代で途絶えてしまいます。

 冷徹でニヒルな清衡のことですから、まぁ、そんなもんだろうって思ったのかもしれませんね。

 でも、できればもう少し人間っぽく、「なんで義経を大将にして鎌倉に攻め上らないんだよ!」って袖を噛み噛みしながらキーッて草葉の陰で叫んでいたとしたら、もう少し親しみがわくんですけどね・・・。

 

 

 

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