みなさん、こんにちは。
今日も休みなのでグダグダ書きますね。
ロシアのウクライナ侵攻がうまくいかない理由の一つにプーのヤツが軍の作戦にあ~だこ~だと指図をしているからだっていうのをよく聞きます。
そもそも、プーに正しい情報が伝えられてるかどうかも怪しいのに、そのプーがクレムリンからゴチャゴチャ言ってきたら軍は混乱しますよね。
これ、かつてのナチスドイツでヒトラーがやってたこととよく似てますね。
ナチがどうのこうのという割には同じようなことをやってるプーってどうなの?っていつも思うんですよ。
それに引き換え一旦軍を派遣したら、現場指揮官に戦闘指揮を一任することで大きな成果を上げた例は歴史上たくさんあります。
その最たるものが古代ローマだと思うんですよ。
特に共和制の頃のローマは、本国が決めるのは将軍の派遣先と戦争目的だけで、後は現地に派遣された指揮官に丸投げでしたからね。
あ、あと最終的に敵との講和内容について指揮官がまとめたものを認めるかどうかは本国で決めたようですが、なにしろ負けてもその指揮官を罪に問わないという実に画期的な制度もありました。
これなら指揮官は余計なことを考えずに戦闘に専念できますね。
まぁ、ロシアに話を戻すと、その軍も戦場でいろいろやらかしてるようですので、全く同情なんかしませんけどね。
歴史を楽しむうえで戦史ほど人を引き付けるものはないと思いますが、先ほど触れたように戦争は必ずしも君主が参加するとは限らないわけで、多くは配下の武将によって行われます。
古代ローマのように戦争の遂行については派遣した武将に任せることができれば、そして派遣された武将がその期待に応えられる力量を兼ね備えていたら、やはり大きな成果を上げられるんですが、君主制の国の場合、君主にも大きな度量が必要になりますね。
昔から、大を成した武将に対して君主がそれに報いることが無かった例は多くあり、それが悲劇の武将を生むことになるっていうケースがあります。
日本で言えば源義経なんか典型的な例ですよね。
平家を倒すことだけを生きがいに生きてきたような人なので、兄頼朝の元に駆け付けた後は義仲追討、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと、立て続けに頼朝軍を勝利に導きましたが、その後は頼朝と対立し逃亡の末奥州で無念の死を遂げます。
満21歳で頼朝軍に参加し、満30歳で亡くなっちゃったんですね。
戦にかけては早熟の天才でしたが、政治的には全く初心で、妖怪後白河法皇と頼朝の駆け引きの中で翻弄され、追い込まれていったようですね。
また、戦に関しては芳しい成果を上げられなかった頼朝が義経の才能に嫉妬したというより、脅威に感じたのかもしれませんね。
言うまでもなく源氏の棟梁っていうのは武士の棟梁でもあるわけで、武士の存在理由っていうのは戦での活躍ですからね。
その能力が他を大きく引き離していた義経は同じ父(源義朝)の血を引いてるわけですから、いつ彼を担ぎ出す者が現れてもおかしくありませんからね。
実際、奥州に逃げ延びたと聞いて、頼朝はちょと焦ったと思うんですよ。
奥州藤原氏の17万騎とも言われる大軍を義経が指揮するとしたら・・・、ヤ、ヤバいでしょ。
でも、この時頼朝ってどんだけ運が良いの!っていうことが起きちゃいます。
義経を庇護していた藤原氏三代目の秀衡が急死しちゃうんですね。
これで動揺した藤原氏は結局頼朝の要請を断り切れず、義経を攻め滅ぼします。
それを見て安心した頼朝はいわゆる奥州合戦を開始します。
で、藤原氏も滅んでしまうっていう話。
源頼朝がいかに政治的な化け物だったのかがよくわかりますね。
苦手なことは配下(一応義経も配下として扱われていました)に任せ、目的が達成されたら、後は危険なだけなのでその配下も消し去ってしまう。
確かに有効な手かもしれませんが、これをやっちゃうと忠誠心が育たなくなるので家の存続が危うくなっちゃいます。
実際、征夷大将軍の源氏は三代で滅び、その後は執権の北条氏に政権を奪われちゃったでしょ。
まぁ、それはそうと、義経みたいな人のことを昔の中国人(越の范蠡)は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』と言ったそうです。
狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまうっていう意味です。
実際、狡兎死して走狗烹られ~の言葉が有名になるのは漢の韓信の最期によるところが大きいですよね。
韓信は漢の三傑の一人で、国士無双と言われたほど戦が強い将軍でした。
三傑っていうのは他に兵站を担って後に丞相になる蕭何と、劉邦の傍らにいて戦略を説き、謀略を駆使した張良がいます。
韓信は漢の大将軍として別動隊を率い、主に中国北部の趙や東部の斉を降して楚漢戦争で漢の勝利に貢献しました。
当時は楚の項羽の強さが圧倒的で、鉅鹿の戦いに見られるように項羽自身が先頭で敵に突っ込むものですから後に続く兵も半ば狂ったような状態で戦います。
ある意味蛮勇で味方の損害も大きいんですが、破壊力は抜群です。
それに対して韓信はきちんと戦術を練ってから戦に臨みます。
理を持って勝つべくして勝つものですから、味方の損害は少なくてすみ、長い遠征を続けることができたんですね。
斉を破り、中華が劉邦・項羽・韓信の3勢力に分かれた時、韓信に独立して天下を取ってはどうか?という者が現れましたが、韓信は劉邦から受けた恩を仇で返すことができず、結局漢の一員として楚の項羽を滅ぼします。
漢の高祖劉邦っていうのは、皇帝になった後、それまでの人の好さが影を潜め猜疑心の虜になっちゃったみたいなんですけどね。
能力のある者や評判のいい者がいつ自分にとって代わるものか分かったものじゃない!って思っちゃったんでしょうね。
ですから、韓信だけでなく彭越や英布なども粛清されます。
それにしても韓信が成したことを思えば、彼の最後はあまりにも不憫なんですよね。
楚漢戦争中に斉王にしてもらい、戦後は故郷もある楚王にしてもらったところまでは良かったんですが、その後は謀反の疑いで淮陰侯に格下げされ、さらに謀反しようとしたところを先手を打たれて捕まってしまい処刑されちゃいます。
この人も義経と同じように絶頂を迎えてから一気に転落してしまうんですが、あれだけ敵の心理を読むことに長けた人なのにどうして劉邦の機嫌を損ねるようなことをしたのかよくわからないんですよね。
領地の見回りに過剰な軍勢を率いてみたり、敵将項羽の家臣だった鍾離眜を匿ってみたりして・・・、なぜなんでしょうね?
同じ三傑の一人張良などは留候にしてもらってこれで十分で~す!ってしちゃったもんだから天寿を全うできたんですよね。
頭が良いことでは同じでも、戦バカは処世術に欠けるところがあるんでしょうか?
さて、主君に疎んじられた武将としてもう一人挙げたいんですが、今度は西洋の人になります。
それは東ローマ帝国のベリサリウスです。
世界史の教科書で必ず出てくる東ローマ帝国のユスティニアヌス1世っていますね。
ローマ帝国再興を目指した皇帝で、イタリア半島や北アフリカなど旧西ローマ帝国の領土の一部を征服したことから大帝の称号が付く人なんですが、実際にその戦争を指揮していた将軍がベリサリウスです。
このベリサリウスはユスティニアヌスが皇帝になったころ将軍に抜擢され、東方のササン朝ペルシャとの戦争やニカの乱の鎮圧で活躍し、西ローマ帝国が滅亡した後ゲルマン人国家が割拠していた北アフリカやイタリアを征服するために派遣されました。
いつも相手より少ない兵力で派遣され、それでも勝つんだけれど、それが何故かユスティニアヌス帝には気に入らないようで、度々指揮権を剝奪されちゃいます。
でも、彼に代わる将軍なんてなかなかいませんから、劣勢になると、やっぱりお願い!ってことで司令官に復帰させます。
で、また勝っちゃうから気に入らなくて降格処分にします。
どうやら皇帝は配下の将軍に嫉妬していたそうなんですね。
大帝とまで呼ばれた男にしては小っちぇなぁ!って思うんですが、ユスティニアヌスっていう人はどうもややこしい性格だったようなんですね。
そのややこしい皇帝から受けたひどい扱いを考えると、普通なら「大スキピオの再来」とまで言われた実力と実績を誇る以上、「もうお前なんかに仕えてやらないもんね!」って言って別の国にでも行けば良さそうなものですが、ベリサリウスは忠義を貫きます。
どうも義経といい、韓信といい、ベリサリウスといい、戦では頭がキレッキレなのに処世術は点でダメダメちゃんなんですよね。
あ、ベリサリウスもきちんと作戦を立てて戦う将軍で(そりゃいつも少数の兵しか与えてもらえませんでしたからね)、敵の心理を読み、常に主導権を取りながら勝利を重ねてきた人なんです。
それがどういうわけか、主君からは疎んじられ、みじめな晩年を過ごす羽目になってしまいます。
前の二人と違うのは命を奪われたわけではないってことだけで、両目をくりぬかれたとか、乞食になっちゃったとか言われています。
私はそれぞれの主君(頼朝・劉邦・ユスティニアヌス)についてそれほど異常性を感じません。
あ、どれも度量が狭いというか、ネガティブな印象は持ちますが、異常だとは思わないんですね。
むしろ、この優れた武将たちの不器用な生き様の方がある意味異常な気がしてならないんですよ。
結局、価値観や恩や忠誠心などに縛られていたってことなんでしょうか?
少し前に取り上げた藤原清衡のように自由な発想がなかったのはとても残念な気がします。
まぁ、この不器用さが生んだ悲劇が、彼らの名を歴史的には輝かせているんでしょうけどね。
そんなの望んでなかったんでしょうに・・・。
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