さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

171 体中の体液が涙になってしまいました。

 みなさん、こんにちは。

 

 wowowで「三丁目の夕日」「続・三丁目の夕日」「三丁目の夕日′64」を一気に見てしまいました。あ、録画しておいたので。体中の体液が涙になってしまいました。いけません。これはとても危険な行為です。こういうほのぼの感動大作は連続してみてしまうと心に潤いを得られたうえで、それを放出してしまいます。見終わった後の残るのはただの抜け殻のような私。まぁ、心地いい抜け殻ちゃんですけどね。

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 ツイッターで、あるアメリカのお店(コンビニ?)で支払いをしようとしていた退役軍人が、カードが使えなくなり困っていると、近くの老婦人が「主人が退役軍人だったからよく知っている。私が払う」と支払いを申し出る動画がありました。その動画には他にも、私が、私がと違う場面でそういう人が現れます。果たしてどれくらいの頻度でそうした人が現れるのかわかりません。

 この動画について「粋」という言葉を使う人がいました。全く同感です。さらに言えば「いなせ」な振る舞いと言っていいでしょう。

 別に他人のことだし、早くどいてくれないかなぁって思う人には理解し難いことでしょうが、かつて日本でもよくある日常的な光景でした。よくいう「困った時はお互い様」ってヤツですね。そしてこうした「粋」で「いなせ」な行為っていうのはかっこよくやらなければなりません。ですから受ける側もいつまでも遠慮していては相手の行為の美しさを損なってしまうので、さっぱりと受ける必要があります。そしてもう一つ言えることとして、この「粋」で「いなせ」な行為の人たちは、それが善だからではなく、そういうもんだからっていう理由でやってのけます。

 もし私の目の前で、同じように困っている人に遭遇したら、どうしたでしょう?たぶん、逡巡に逡巡を繰り返した挙句、これは良いことだからと自分を無理やり納得させて、ようやく重い腰を上げたんじゃないかと思います。いや、ひょっとして何もしなかったかも…。これが正直なところです、情けないことですが。

 逡巡する理由はたくさんあります。差し出がましいんじゃないか?これってわざとやっていないか?申し出ても拒否されたらどうしよう。周りにいる人から変に思われるかもしれない。っていうか自分が立て替えるのが良いことなのか?他にもあるんでしょうが、今は思いつきません。まぁ、凡人の陥りやすい典型的なパターンですね。

 先ほど、かつて日本でも、と述べましたが、それはそれほど昔の話ではなく、今から半世紀前まではそんな感じだったと思います。1970年代くらいまでですね。戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、私たちの先達はみんな必死に生きてきました。別に全員が天下国家のためになんかではなく、自分とその家族のために、です。この時期の人たちはそれこそ何もないところで生活していたわけですから、いろんなことができました。勤めに出たりお店を開いていても、大工さんやお百姓さんのようなこともやっていました。だってそうしなければ生きていけないんですから。さらにご近所同士で足りないものを補い合いながら、手が足りない時は手を貸しあいながら生きていました。だって、そうしなければ生きていけないんですから。自分のまわりの誰かが困っているのを放っておいたら、そのしわ寄せが他の家庭に及びますからね。

 でも、不思議なことがあります。この様に物がなく、不自由な時期にお互い助け合いながら生きてきた人たちは、いろんなことができるくせに自分一人で何もできないっていう危機感が常にあったことです。そして、今、物があふれ便利になった我々はお互いに助け合うようなことを無理やりしなくても生きていけるし、何でもできるような気がしています。でも、実際は仕事や趣味でしていること以外、ほとんどできません。汎用性がないんですよね。だって、ほら、お金があれば何でもしてもらえますから。

 なんかおかしいですよね。

 まぁ、だからといって昔が全部いいとはこれっぽっちも思っていません。ぶっちゃげた話をすると、良いとこ取りがしたいですね。まぁ、私は所詮、草刈り機を持てば悪魔の手先に成り下がる人間ですから、倫理的なことなど考えていませんよ。ただ、昔から残っているものの中には良いものがまだたくさんありますから、捨てちゃうのはもったいないですし、最先端技術でぶっちぎって便利なものにも魅力があります。私は欲張りですから、そのうちのどちらかを諦めるのはどうしても嫌なんです。

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 実はこの三丁目の夕日シリーズを見る前に黒澤明監督の「七人の侍」をみていました。故あって、あまり日本のメディアの放送を見たくないのでwowowばっかりのお正月ですが、この「七人の侍」ではお百姓さんがとっても粗末に描かれています。TVなどでみる時代劇のお百姓さんは結構小ぎれいにしていますからね。こういうのを考えると、今の日本の時代劇の時代考証も怪しいものですし、なにより印象操作の匂いを感じてしまいます。まぁ、今日はあまり文句を書きたくないので、これくらいにしておきますが、冒頭のアメリカのお話をもう一度考えてみると、なおさら印象操作の怖さを感じます。私のアメリカについての(貧しい)イメージは、ニューヨークやロスアンゼルスなどの大都市の印象が圧倒的に強かったものです。ですから、あの動画を見たときに思ったんです。よく考えたら、日本の3倍くらいの人が日本の数十倍の国土に住んでいるんですから、田舎は山ほどあるんでしょう。その私の知らないアメリカの田舎では、私たちが捨ててしまったものが未だに残っているのかもしれませんね。なにしろ、田舎ですからね。一人では生きていけませんから。

 フム、アメリカの片田舎で昔ながらの義理と人情に包まれながら、スマホをポチポチ。なかなか悪くないですねぇ。(最先端技術でぶっちぎって便利なもの=スマホ)…。

 まっまぁいいじゃないですか。

 少なくとも「粋」で「いなせ」な人々の存在は、見ていて胸がスゥーッとします。

 それに引きかえ我が町は、なんだか東京などの模倣をするかのような小賢しいマネをしているように思えます。あ、私もその一員かも…。田舎には田舎の良さがあったはずですが、う~ん、ちょっと反省しています。

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 最後に、ちょっと毒を吐きます。

 最近ツイッター上で見かける「お母さん食堂」に文句を言っている人や夫たる人を「ご主人」と呼ばれて憤慨しているご夫婦とそれに賛同している人々。他にもありますが、こういう以前の価値観や仕組みを否定して、自分の嗜好を正しいと押し付ける行為は、はっきり言って「野暮」で「無粋」なだけです。こういう人たちって多様性を受け入れるべきだってよく言いますが、ご自分たちが一番偏狭で凝り固まっているのが分からないようです。先ほどの「野暮」で「無粋」というのはそういうことです。

 まぁ、意味はネットなどでご確認いただきたいのですが、そもそも言葉の響きが違います。それだけで十分な気がするんですよ。

 「粋」で「いなせ」なにくいヤツと「野暮」で「無粋」なアンポンタンですからね。