さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

831 サラディンが望んだ未来って・・・。

 みなさん、こんにちは。

 

 アメリカとサウジアラビアの仲がちょと微妙になってますね。

 OPECプラスでの石油減産の見通しは、原油価格を下落させてロシアの収入を減らしたいアメリカにとって到底飲めない話ですからね。

 他にも皇太子がジャーナリスト殺害に関わっていたとか、人権問題も取りざたされている中で、アメリカにとってサウジアラビアの存在価値が変わってきてるのかもしれませんね。

 プーのおバカが未だに戦争を止めようとせず、このところ無差別とも思えるミサイル攻撃をやってる時に、いったい何をやってるんだ!って思いますが、まぁ、イスラム国家って昔からそんな感じでしょって思っちゃうんですよね。

 基本的に考え方というかその方向性がちょと違うような気がします。

 7世紀前半にムハンマドによってアラビア半島に立ち上がったイスラム教徒による国家は瞬く間にシリア・エジプト・イランなどの地域を切り取り、ウマイヤ朝の時期には北アフリカからイベリア半島にまで版図を広げちゃいました。

 古代ローマ帝国に匹敵する巨大帝国です。

 でも、このイスラム帝国ってすぐ分裂しちゃうんですよね。

 各地で我こそはカリフだよ~ん!みたいなことを言う者が出てくるし、そのカリフの配下である各地の領主もともすれば離反を繰り返しながら自勢力の維持に努めてました。要するにバラッバラになる傾向が強いんですよね。

 今、中東などはオイルマネーによって富裕層は信じられないくらい豊かな生活をしてますが、相変わらず貧困層は依然としているわけで、厳しい自然環境と合わせて、我々には決して豊かとはいえないイメージなんですよね。

 でも、当時のアラビア半島は当然石油なんか出ませんから貧しかったと思うんですが、エジプトからパレスチナを経てシリア・イランのあたりっていうのは古代から巨大な帝国が勃興したことからもわかるように、比較的豊かだったんですね。

 たぶん、当時のヨーロッパよりも富は多かったのではないかと思います。

 北アフリカも今よりは緑が多く、農耕に適した土地も多かったでしょうし。

 何が言いたいのかというと、貧しいアラビアから始まったイスラム教化はやがて豊饒な地を得たことで、当初の火のような信仰心による侵攻は鈍化して、やがてその富をめぐって内輪もめをしちゃうっていうことなんです。

 私、昔のこういうことに思いをはせると、今も大して変わってねぇだろ!って思っちゃうんですよねぇ。

 まぁ、それはそうと、イスラム帝国の隆盛はその後の分裂や混乱でなにがなんやらみたいな状況になっちゃって、中東を中心とした巨大勢力はオスマン帝国まで待たなければなりません。

 支配する力が弱まると富を求めてバラバラになり、結局強い力で押さえつけなければ統一が保てないのはなにもここだけの話ではないんでしょうが、やはりイスラム世界の歴史って何となくそういう印象が強いんですよね。

 そして今もまた、欧米とロシアの間で綱渡りするようなことをインドと同じようにやってますが、おそらくそれは良い結果をもたらさないような気がするんですよね。

 

 さて、前置きが長くなりました。

 イスラム世界の歴史っていうのは、同じような名前がいっぱい出てくる上に、その王朝が単独で誕生し衰退したんじゃなくって、常にどっか別の王朝と絡み合った状態で存在するもんですから、さっぱりわからないんですよ。

 それに、現在の国とのつながりが欧米(特に英仏)のせいでイメージしづらくって、わかりにくさに拍車をかけています。

 ですから、歴史がある以上、当然人物も浮かび上がってきそうなものですが、このイスラム世界からは本当に著名な人が少ないと思うんですよ。

 それでも誰かひとり取り上げるとしたら、やはりサラディンですよね~!

 サラディン(1137または1138~1193)。

 サラディンっていうのはサラーフッディーンっていうのが正しいようですが、これって名前というより尊称なんですね。宗教/信仰の救いっていう意味らしいです。

 本名はユースフ・ブン・アイユーブ(アイユーブさん家のユースフ君)だそうな。

 まぁ、良く知れ渡ってるサラディンで言った方が良さそうなので、それで行きますが、何をした人かって言うと、アイユーブ朝を興し、十字軍に奪われたエルサレムを奪還し、それを再び攻略しに来た十字軍を追っ払った人です。以上・・・。

 ・・・、もう終わり!?って感じですが、実際そうなんですもん。

 55歳または56歳で亡くなってますからね。

 もともと王家に生まれたわけでもないので、そんなにたくさんのことはできません。

 それに、先ほども触れたようにイスラム世界は分裂しがちで、この当時も3人のカリフがいたんですね。

 そんな中で、持ち前の才覚と運や人の縁に恵まれてぐんぐんのし上がり、サラディンはエジプトを支配下に置くことに成功します。

 ちなみにこの当時のシーア派スンニ派の争いってどこまで深刻だったのかよくわからないんですよ。

 なぜなら、サラディン支配下におさめたエジプトは、当時シーア派ファーティマ朝に属していましたが、そのファーティマ朝が断絶するとサラディンスンニ派に鞍替えしちゃいます。

 えっ、そんなことできんの!?ってぐらいお手軽です。

 まぁ、周りの人が良いって言うんなら別にいいんですが、今、その宗派の違いで憎み合ってるのを見ると、どうなんだろうって思うんですよ。

 で、その後ダマスカスなども手中にしてエジプトからメソポタミアにかけて支配するようになったサラディンにとって、その支配領域にある聖地エルサレムキリスト教徒から取り戻す(もともとは東ローマ帝国領だったのをアラブ勢力が奪っちゃいましたが・・・)必要があるんですね。

 ところがこの当時のイスラム勢力は敵味方の区別がメチャクチャで、同じイスラム教徒の勢力を倒すためにエルサレム王国などのキリスト教徒と平気で手を結んでしまうような状況でした。

 事実、サラディンがエジプトに侵攻した時もファーティマ朝エルサレム王国の連合軍と戦う羽目になってます。

 考えようによっては、彼らのそうした性質はもともと豊かだったオリエント世界とイスラム教が誕生して500年くらい経過しているのもあって、実に計算高いスレたようなものになっちゃってたのかもしれませんね。

 まぁ、良く言えば洗練されていたというか・・・、そのせいもあって団結するっていうことがとにかく苦手だったんですね。

 それに引き換え12世紀当時のヨーロッパは未だ貧しく、キリスト教を妄信する人々であふれていたんでしょう。

 十字軍という聞こえはちょとカッコイイ人々も、オリエント世界の人からすれば狂信的で野蛮な田舎者でしかなかったことだと考えられます。

 今では想像もできませんが、時代背景はそんな風ですね。

 で、そのまとまりに欠ける連中をサラディンはジハード(聖戦)を呼びかけて糾合します。数々の軍事的成功をおさめた者にしか言えないセリフですが、それにもましてサラディンの寛容な姿勢も別の意味で多くの人を引き付けたことでしょう。

 何しろ当時の支配層の人間は皆欲望の塊みたいな連中でしたからね。

 亡くなった時にその資産は葬式も出せないくらい少なかったサラディンは同じイスラム教徒から見ても新鮮だったと思うんですよ。

 また、彼は軍事的才能にも恵まれていましたが、無理な戦いは極力避けていました。

 エルサレム王国との決戦になったヒッティーンの戦いはその最たるもので、イケイケのエルサレム王国側に対して、冷静に水場をおさえ敵が渇きに苦しんでるところを叩くあたりなかなかのものです。

 その後エルサレムを攻略し、聖地奪還という偉業を成し遂げてイスラム世界の英雄になったんですが、この時捕虜になったキリスト教徒を身代金無しで開放しています。

 このことが後に西洋でも極めて高く評価される点ですが、まぁ、もともと残虐・冷酷なことをしたがる人じゃなかったんだと思うんですね。

 そして、そこで示した寛容の精神が後に良い形で表れてほしいという願いもあったと思うんですよ。

 それは半世紀後に実現するんですが、どこまでサラディンが見通していたことやら?なんですね。

 さて、エルサレムを攻略したのはいいけれど、とったものは守らなければならず、その後の第三回十字軍ではイギリスのリチャード1世の猛攻に苦しむことになります。

 先ほども触れたようにサラディンは無理な戦いを兵に強いることはしません。

 ただでさえバラバラになる性質を持ってる以上、いくら聖戦だ~!って盛り上がっていても、そんなことをしたらすぐにもうヤ~メタ!ってなっちゃいます。

 これに対してリチャード1世獅子心王のなにふさわしく勇猛果敢でありながら戦機を見るにも長けていますし、率いる兵士は例によって半ば狂ったような連中です。

 サラディンにしてみればせっかくイスラム世界の団結に成功したのに、こんな連中の相手をしていたらめちゃくちゃになっちゃうよ~!って感じだったと思うんですね。

 実際、完全に十字軍側が押してましたからね。

 サラディンとしては、ここで一か八かの決戦に打って出るか持久戦に持ち込むか・・・、やっぱ持久戦だよね~♪だったんでしょう。

 でも持久戦は士気を保つのが難しいんですよね。

 しかも、サラディン自身結構グロッキーだったと思うんですよ。

 後の話として、この第三回十字軍が終了して半年後に彼は亡くなりますからね。

 それでもイスラム世界の英雄の権威は講和に持ち込むまでかろうじて自軍の士気を維持するのに役立ったようです。

 キリスト教徒がエルサレムを巡礼することを認めることで講和できましたから。

 ・・・っていうか、これって十字軍以前もそうだったような気が・・・。

 まぁ、いいんですけどね。

 実際にエルサレムイスラム勢力が支配し続けることができたんですから。

 サラディンイスラム勢力の盟主として活躍した時間は約20年ほどですが、彼の行動規範というかその姿勢っていうのは、ただ単にイスラム世界の統一だけを考えていたのではなく、宗教的な対立をも乗り越えることまで見据えた上のことだったのではないかと思っています。

 当時では考えられない敵に対しても示した寛容さを思うと、どうしてもそういう結論になっちゃうんですよね。

 そういう仮定で考えていくと、今から800年以上も前の人が見つめていた未来像を未だに成し得ない現代人ってどうなのよ!?ってやっぱり思っちゃいますね。

 そしてイスラム世界にサラディンのような人物は二度と現れていないと思います。

 サラディンが見たいと思った世界がどういうものだったのか、とても興味があるんですが、はたしてどういうものだったんでしょうね?

 ふみきゅん、知ってる?

 プーは知らないと思うよ。

 

 

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