みなさん、こんにちは。
ウクライナの反転攻勢を受けて、ロシアは部分動員を決めたようですが、これについて抗議デモが起きてる上に、国外に逃れる動きが出てきてるって報道されてますね。
まぁ、どこまで本当なのかわかりませんが、ロシアの軍事侵攻がうまくいってないというよりも頓挫しちゃう可能性が出て来たっていうのは間違いないと思います。
プーチン、ザマァ!ですよね。
で、ちょと思うんですが、今ロシア国外にいる人って、戦争やめろ!とか言って比較的自由に話してるじゃないですか。
それはそれでわかりますが、もしもウクライナ軍が領土を取り戻し、勢いに乗ってロシア領内になだれ込んだら、彼らはどう言うんでしょうね。
仕方がないことだ・・・、って言うんでしょうか?
それとも、ロシアがウクライナに攻め込むのと同じように、やめなさい!って言うんでしょうか?これなら筋が通ります。
あるいは、祖国ロシアを守りたい!徹底抗戦だ!って言いますかね。
感情的にはわかりますが、ちょと自分勝手なような気もします。
それでも、侵攻開始からず~っと戦争やめろって言ってきた人にはそれなりに説得力がありますが、日和見を決め込んでいたり、プーチンを支持してきたような人が、一転してロシアが攻め込まれるようになると、ウクライナは間違ってる~!って言いだしたとしたら、これっておかしいですよね。
おかしいけれど、今回の戦争って、こういう雰囲気がず~っとだ酔ってますよね。
ロシアがウクライナに攻め込むのは良いんだけれど、ウクライナがロシアに攻め込むのはダメよ!もしそんなことしたら、核使っちゃうから!みたいな雰囲気。
なので、今ウクライナ支援を行ってる国々も、ウクライナがロシアに攻め込むような情勢になると、まぁまぁ、それはやめときなさいな!って言いだしそうなんですよね。
なんか不公平な戦争ですよね。
うん?まぁ、戦争が終わるのは良いんだけれど・・・、戦争すると、必ず恨みや憎悪が生まれちゃうじゃないですか。
それをウクライナの人々はうまく消化できるんでしょうか?
まだ、そんな事態になんてなっていないので、捕らぬ狸の皮算用みたいな話ですが、そんなことを思ってしまいます。
世界中が迷惑してるこの戦争、早く終わってほしいものですね。
さて、ロシアとウクライナの戦争のように長期戦になってくると、どちらも苦しくなっちゃいますね。
そもそも戦争はいかに短期戦で終わらせることができるのかによって大将の優劣が決まるような気がします。
そういう意味では、やはり関ヶ原の戦いにおける徳川家康っていうのはとんでもない化け物だったと思うんですよ。
私、この人嫌いなんですけど、能力に関して言えばやはり戦国時代随一だと思うんですね。
特に日本中の大名を東西に二分した争いを一度の会戦で終結させた手腕は抜群だったと思います。
関ヶ原の戦い、その戦闘自体は、まぁ、裏切り者が出てしまい、西軍は布陣した兵の半分くらいしかまともに戦っていないから、特に見るべきものはあまりないような気がしますが、その会戦に持って行くまでの家康の戦略は本当に見事なものでした。
発端は会津の上杉征伐に向かうため家康が大坂を離れたタイミングで三成が挙兵したことに始まりますが、これは家康の予想通りだったわけで、問題は上杉征伐に参加していた豊臣恩顧の諸大名を味方に引き込めるかどうかだったのだと思います。
豊臣家に対する忠誠心と石田三成らに対する憎悪の念のどちらが大きいのか、家康はじっくりと観察し、判断したんだろうと思うんですね。
あの時、福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名が、やっぱり秀頼ちゃんには逆らえないよ~!って腰が引けてしまってるようなら、三成など無視して大坂方と話をつけるっていう手が残ってましたからね。
そうなれば当然天下取りへの道も途絶えちゃうわけなんですが・・・。
もちろん家康にしてみればおよそ半世紀に及ぶ我慢に耐えてきたわけですから、この機を逃すつもりはなかったんでしょうけど、無理なものは無理ですからね。
この豊臣恩顧の大名の動向の見極めとその後の調略が完了した時点で、家康は勝利を確信していたと思うんですよ。
なにしろ西軍は寄せ集めの軍でしたからね。
この時点で豊臣秀頼の出馬なんてありえないことだったわけだし、総大将の毛利輝元も大坂城にこもったままでした。
豊臣政権の五大老のうち、西軍に参加して実際に戦ったのは宇喜田秀家だけだったっていうことだけでも、西軍には柱がなかったってわかりますよね。
ともに会津に軍を進めていた諸大名を味方にすることに成功した後、家康は彼らを先発させて、自身はゆっくり西上します。
で、先発して尾張に入った東軍(家康方)の諸将の尻を叩くことに専念します。
西軍は始めから終わりまでず~っと寄せ集め軍団でしたが、尾張に入った東軍の諸将もこの時は寄せ集め状態だったんですね。
これって、家康が意図的にそうしたんだと思ってます。
目的は二つ。
一つは自分たちから戦端を開くことで、引き返せない(豊臣方に寝返ることができない)状態にすること。
二つ目は先端が開いたら、今度は手柄争いをおっぱじめることは間違いありませんでしたから、それによって戦機が早々に熟すようにしたかったってこと。
勝利を確信した家康にとって、その後の最優先事項はいかに短期間でこの戦争を終わらせることができるのかってことですからね。
万一、長期戦になってしまい、一時的に西軍優勢にでもなったら秀頼が出てくる可能性もありますし、そうでなくても時間の経過とともに信用が置けない豊臣恩顧の大名の心理状態が怪しくなりますからね。
また、長期戦になると地方で怪しい動きをする者が出てきます。
現に東北では伊達政宗が、九州では黒田官兵衛が独自の動きを始めてましたからね。
そして長くかかると、その分だけ戦争終結後の統治が難しくなっちゃいます。
そういうわけで、先発隊の尻を突き続けて、西軍がそれに乗って集結したころ合いを見て家康本体が合流。
この時の戦力は東西ほぼ拮抗しています。
なぜなら別動隊の徳川秀忠軍四万弱がまだ到着していませんでしたからね。
普通なら、彼らの到着を待って会戦に臨むべきなんですが、家康はあえてそうせず、別動隊の到着前に会戦に打って出ます。
まぁ、後からなら何とでもいえますが、私、家康はどうしても一度の会戦で決着をつけたかったんだと思いますし、そのためには兵力が拮抗していないと相手が乗ってこないという考えがあったと思うんですよ。
秀忠軍が合流して、圧倒的に東軍が有利になっちゃうと西軍は殻に閉じこもっちゃいますからね。
それに、兵力が拮抗してるとは言っても、それは表向きな話で、この時すでに調略(裏切りの約束)はほぼ完了していたんでしょう。
ですから、西軍の実際の戦力は布陣した軍の半分くらいっていう目算があったんだろうと思います。
恐ろしいタヌキ親父です。
・・・、よくよく考えてみると、内々で秀忠軍にはわざと遅参するように言ってたんじゃないの?って言いたくなるくらいです。
ありえないことですが、西軍が関が原で勝利しても別動隊が健在なら家康は軍を立て直せますからね。
で、その間、西軍はというと、三成君が下痢になっちゃって・・・。
関ヶ原の戦いはその布陣図を事前情報や先入観なしに見れば西軍の勝ちっていう人がほとんどです。
関ヶ原っていう盆地に対して、それを囲む山々の尾根伝いに西と南から包囲するように配置した西軍は地の利も得ています。
これに対して東軍は本陣こそ桃配り山においたものの、各部隊は隘路から平地に突出したような形で布陣しており、地の利もへったくれもありません。
私、この布陣に対しても家康の入念な配慮がうかがえるんですよね。
西軍に勝ったと思わせるための配慮。
で、実際に南側の山に布陣していた毛利勢は麓の吉川勢が裏切って通せんぼしたために戦闘に参加できず、西南に布陣していた小早川勢が裏切って西軍の側面を突き勝負は決します。
家康が想定したとおりに始まり、そのまま終わっちゃいます。
西軍はほぼ壊滅したため、大坂にいた毛利輝元は安芸に逃げ、大坂方は家康に従うほかなくなっちゃいます。
家康が会津征伐のため大坂を出発したのが1600年の6月16日。
関ヶ原の戦いが同年9月15日。
家康が大坂城に勝者として入場したのが9月27日。
わずか3か月余りで完成させた家康天下取りの戦略です。
徳川家康っていうのは、長年彼に圧力をかけてきた者たちから多くを学んで出来上がった人物のような気がします。
若いころは武田信玄の圧力を受けながら織田方の防波堤の役割を果たし、武田氏滅亡後は巨大化した信長の圧力を受け、本能寺で信長が横死した後は秀吉が天下をさらっていったためにこれに臣従しなければならず、よくもまぁ生き残ったものだとつくづく感心するんですよ。
そして、その中で軍法や戦略戦術、苛烈で冷徹な決定、人心掌握術等々学んでいったんでしょう。
言ってみれば戦国武将の完成形みたいなものですよね。
まぁ、嫌いなんですけどね。
孫子は兵は拙速を尊ぶと言いましたが、それだけ戦争の長期化は昔から忌み嫌われてきたことなんでしょう。
そして、マズい作戦などではなく優れた作戦の元に行われた戦争ほど、勝者は力を温存できますから戦後の処理が容易になります。
このあたり、プーチンにはわからないのかもしれませんねぇ。
クリミアの時はうまくいったと思ってたんでしょうけどね。
オバカデスヨネ…。
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