さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

775 日本一の兵・・・、寡黙で柔和な小男だけど。

 みなさん、こんにちは。

 

 ふ~!

 お盆を挟んで変則的な休みの期間も今日で終わりです。

 10日から2日休んで2日出勤して、また2日休んで1日出勤して、そんでもってまた2日休んで明日から通常勤務。

 ちなみにこれ私だけ・・・、他の人は最低3日、長くて5日連続して休みになってるんですよねぇ。嫌われてんのかな?

 まぁ、いいんですが、あ~、また明日から仕事かと思うと、なんかブルーになっちゃいますね。

 なので、今日は真田幸村のお話をします。

 真田幸村、本名(?)真田源二郎信繁。

 真田昌幸の次男として1567年または1570年に生まれました。

 で、この人は49歳で亡くなるまでの間に参戦した主な戦いは第一次上田合戦、第二次上田合戦、大坂の陣(冬・夏)の3回(4回?)です・・・。

 なんか少ないでしょ。

 そのくせ、大坂の陣の後、徳川方から日本一の兵(ひのもといちのつわもの)なんて言われています。

 でも、第一次、第二次上田合戦は父昌幸の指揮下で戦ったわけですし、大坂の陣もまた大阪方の有力武将の一人程度の扱いでした。

 それなのに日本一の兵とはどういうことでしょうか?

 生涯戦に明け暮れた上杉の謙ちゃんや武田信玄坊主が怒っちゃいそうですね。

 それに、昨今の歴史ブームに乗って、何やらイケメン武将の筆頭のような扱いです。

 これにはサル・・・、あ、いや、秀吉もお冠ですよ!

 どうもこのイケメンの傾向は信長・秀吉・家康から一世代、二世代後に出てくる武将をそうするようで、他にも石田三成立花宗茂伊達政宗なども年齢で言えばそうなります。

 毛利元就なんか生まれた時から爺顔だったんじゃないの?ってくらい爺さんになった姿ばっかりですよね。

 これってどうにかならないもんですかね。

 なんか、あまりにも不憫で・・・。

 まぁ、いいです。

 で、この幸村君ですが、その生涯は人質と流罪になってる期間がほとんどです。

 いや、ホントに、何やってんだかって感じですが、仕方がありません。

 世は戦国末期で、信長・秀吉による天下統一が着々と進められてた時期ですからね。

 最初は武田氏を滅ぼした信長の配下で関東の責任者だった滝川一益の元に人質に送られます。十代前半のことです。

 しかし、まもなく本能寺の変が起き、一旦親元に戻るんですが、今度はその後の信濃・上野の支配権をめぐって上杉氏・徳川氏・北条氏の争いに真田家は巻き込まれちゃって、第一次上田合戦(対徳川戦)の後、上杉氏へ人質に送られます。

 で、今度は秀吉が甲信越まで勢力を伸ばしてくると、秀吉の元に送られます。

 もちろん人質としてですが、どうもこの幸村君っていうのはどこに人質に行っても気に入られる性質のようで、秀吉の元ではもっぱら小姓として重用されます。

 で、この秀吉の元に人質としている間に大谷吉嗣の娘と夫婦になります。

 秀吉が亡くなってから関ヶ原の戦いまでの間は親元にいますが、昌幸が西軍につくことにしたため、中山道を進む徳川秀忠軍と戦います(第二次上田合戦)。

 上田合戦では父昌幸の指揮の元、秀忠軍を十分に叩き、なおかつ足止めしたにもかかわらず、関ヶ原で西軍が負けちゃったので、戦後高野山流罪となります。

 その後、紀州九度山に移されます。ちなみにここで父昌幸は亡くなります。

 流罪になってから時がたち、豊臣方と徳川方の対立が激しくなると豊臣方につくことに決め、九度山を脱出し大坂城へ入場します。

 冬の陣では真田丸っていう出城を拵えて奮戦します。

 この真田丸での活躍で名前が知られるようになったようです。

 そして運命の夏の陣では、家康の本陣めがけて鬼のような突撃を敢行します。

 この突撃はすさまじかったようで、家康は本陣を2度移動し、自身も切腹の覚悟をしたほどだったそうです。

 しかし、あと一歩のところで家康まで届かず、結局退却しますが、その途中、休憩してるところに敵将が現れたため、そこで討ち取られます。

 これが真田幸村の生涯です。

 イケメンにしたい方には申し訳ないんですが、幸村君は小兵だったようです。

 また、普段は寡黙で柔和で怒ることが無いような人だったんですって。

 う~ん、戦場では鬼の形相で突撃してそうな男なんですけどね。

 私、幸村君って、基本的に野心家でもなく、名誉欲もなく、ただひたすら「スカッとした戦をして勝ちたい!」っていう男だったんだろうなぁって思うんですね。

 父親は戦争も謀略も何でも来い!っていう昌幸ですし、兄の信幸(後の信之)はこれまた優秀な人物で、戦もそうですが内政家というか統治者として後に名君とも言われる男でした。

 ですから、末っ子の幸村君は人質稼業はしていたものの、家を継ぐとか家名を存続させるとか、そういうことからは解放されてたんじゃないかと思うんですね。

 で、好きなことは?って聞かれると「い、いくさ・・・」ってぼそぼそ言いそうな幸村君にとって、いつか華々しい戦働きを、いや、戦を指揮してみたい!って思っていたんでしょう。

 それ以外のことなんて、どうでもよかったんでしょうね。

 ほんと、骨の髄まで戦好きなんですよね。・・・きっと。

 まぁ、昌幸の息子ですから、人質時代も機転が利くので如才なく過ごして行けたんでしょうし、まぁ、あまり苦労してるようには思えないところも、彼自身に戦以外執着がないからなんじゃないかと思うんですよ。

 そして、幸村君は基本的に流れに逆らうことをほとんどしません。

 父の命令にも粛々と従ってますし、戦以外のことは、まぁ、いいんじゃないの!って感じでこだわりがありません。

 ホント戦だけですよね。

 大坂城に入場しても、父親のような名声や実績がない幸村君は、いろいろ献策しますが用いてもらえません。

 それでも、真田丸作りたい!っていう希望だけは通ったので、それでよかったんでしょう。たぶんこの人は与えられた条件の中で、いかに最大限の効果を生み出すのかを考えるのがうまかったんだと思います。

 たぶん、子供のころ将来世継ぎになることはないって思っていたと思われる幸村君は、自分を表現できるのは戦だけとも考えていたのかもしれません。

 よく、豊臣家に対する忠誠心からと言われますが、私には家康の首をとることこそ、あの時期最も困難でやりがいのある戦働きだと決めていたように思われます。

 そういう意味ではただ一点のみに生涯をかけたわけですから、イケメンにされるのも無理からぬことなんでしょうね。

 ホントは寡黙で柔和な小男なのに・・・。

 ただ、その生き様は・・・、やっぱりあこがれちゃいますね。

 

 

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