さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

712 私は諸葛亮孔明が好き・・・②

 みなさん、こんにちは。

 

 前回はすごくおおざっぱに諸葛亮孔明のことを書きましたが、今回はもう少し細かく書いてみようと思います。

 孔明の人生は大きく3つに分けられると思っています。

 生まれてから劉備に仕えるようになるまで、劉備に仕えてから劉備が死ぬまで、そして彼自身の命が尽きるまで。

 とりあえず、仕官する前のことは置いといて、劉備に仕官してからについて考えてみると、その前半は劉備を支えたように思われがちですが、私は劉備によって思いっきり活躍させてもらってた時期だと思ってます。

 いや、だって孔明って人付き合い苦手そうだし、頭がキレる分誤解や逆恨みされやすそうだし、柔和だとか人懐っこいとかいう評価は全く見られませんからね。

 たぶん融通が利かず、無駄な話もしないような、ちょっと嫌なヤツって思われそうな人だったと思うんですよ。

 しかし、策はズバズバ決まるし、公正だし、何より劉備への忠誠は疑いようがないので、周りの連中も文句を言いたくても言えません。

 まぁ、それでも普通なら総スカンを食らっても仕方がなく、仕事上やむを得ないことだけは従うけど、それ以外は口もききたくない!ってなっちゃいますよね。

 会社にもそういう人っているでしょ。

 仕事はよくできるんだけど、なんかあいつ嫌い!って思われちゃう人。

 でも、孔明がいた組織には劉備が君主として君臨してましたからね。

 この劉備って人は吉川英治氏の三国志では冒頭だけは完全無欠の主人公のように書かれますが、その後どんどん実務はダメな君主になり下がっていきます(笑)。もう、人柄や執念だけで生きてるような人になっちゃうんですよね。

 戦ってもすぐ負けちゃうし、あっちこっちの群雄を頼ってフラフラしてばかりです。

 ただ、それでも次々と有能な人物がその傘下に入っていくっていう不思議な現象を引き起こす人物でもあるんです。

 実にミステリアスなんですが、とりあえず個性の強い家臣をまとめるのには彼の性格は大いに役立ったんでしょうね。

 まぁ、親分がいいって言うんなら、仕方ねぇか・・・、みたいな感じで。

 ですから、孔明の、特に若いころなんて言ったら、いかにも書生上がりで~す!なんて言う雰囲気を漂わせていたはずです。そんなのがいきなり軍師なんて要職に就いても、何とか機能しちゃうんでしょう。

 たぶん、孔明の短所を劉備が補っていたんだろうと思うんですね。

 新野での曹操軍の撃退から始まる孔明の活躍は、その裏で劉備による他の武将のガス抜きがあってこそできたものだったのかもしれません。

 張飛あたりがヤケ酒しながら、なんだよ孔明のヤツ!馬鹿にしてんのか!なんて言ってるところへ劉備がやってきて、酌をしてやりながらまぁまぁと宥めてる様が頭に浮かんでくるようです。

 曹操の大軍に対する撤退戦、赤壁の戦い荊州南部の制圧と劉備の懐で思う存分力を発揮していた、まさに絶頂期の孔明の運命に変化が現れたのはその後の入蜀の際、もう一人の軍師龐統を失ったことなのではないでしょうか。

 それがやがて関羽の戦死と荊州の喪失につながるような気がします。

 三顧の礼を受けて孔明劉備に語ったとされる天下三分の計は荊州益州の保持が欠かせない条件でしたからね。

 歴史にもしもはないんですが、どうしても龐統が生きていたらと思わずにはいられません。入蜀後に、龐統荊州の守備を孔明と交代していたら、関羽の北上作戦の後方をきちんと支えられていたことでしょうし、あっさりと呉に攻略されることもなかったはずです。

 で、関羽が死ぬようなことがなければ劉備は相変わらず孔明に任せる!って感じだったことでしょうからね。

 孔明が隆中で練っていた壮大な戦略を実行に移せたはずです。

 現に漢中攻略戦の直後に関羽の北上作戦が行われましたから。

 小説の中で吉川英治氏も触れてましたが、劉備孔明もいささか関羽を過大評価していたところがありますよね。

 もちろん当時の武将の中でも際立って能力が高かったのは間違いないと思います。

 樊城の戦いでも勝ってますし。

 でも広大な荊州を維持しながら魏との戦争を続けられるほど器用ではないと思いますし、それを補う武将が足りなかったと思うんですね。

 ここから連続して起きる事態は孔明の描いていた戦略を頓挫させるものでした。

 関羽亡き後、魏王曹操が死に、漢の献帝は帝位を魏の文帝(曹丕)に禅譲。直後に献帝殺害のデマが流れ(山陽公として生きてた)、劉備蜀漢皇帝に立ち、関羽の仇を打つため夷陵の戦いを起こし、張飛が戦争準備中に殺害され、黄忠も戦死。(これにより五虎大将軍のうち4人がいなくなっちゃった)そして夷陵の戦いに敗れた劉備白帝城にて死去。

 関羽が亡くなったのが220年で劉備が亡くなったのは223年です。わずか4年の間に孔明の周りの環境はガラッと変わります。

 よき保護者(?)であった劉備はいませんし、当時中華に勇名をはせた猛将も趙雲魏延を残すのみ、領土も荊州を失い実質益州のみとなり、後継者の劉禅はまだ子供です。

 この絶望的な状況(彼の戦略においてですが)のなかで、彼が選択したのは攻勢!

 断固として魏を討つべし!でした。

 私が一番魅力を感じるのは、この劉備が亡くなって以降の孔明なんですね。

 まぁ、長くなっちゃったのでそのお話は次回に譲りますが、それはもう、チャラチャラした感じ見て、北には曹操が覇を唱えており、東には孫権が強固な地盤を築いていました。普通、この両者が士官先としては最有力候補になりますよね。他にも数段ランクが落ちるとはいえ荊州を治めていた劉表益州の劉章がいました。

 彼らは地盤を持たない渡り鳥兼居候の劉備よりははるかに力を持っていました。

 それなのに、どうして劉備を選んだの?

 三顧の礼をしたから?

 う~ん、それをしなかったとしても、おそらく劉備に仕えたんじゃないかと思うんですが、もう少し様子を見たかったのかもしれないとは思うんですよね。

 劉備が自分の人生をかけて使えるべき君主なのかどうか、今一つ確信が持てなかったというか、よくわからなかったところがあったんだと思うんです。

 それが劉表の死後、時をおかずに荊州をとるよう進言したのを劉備が退けたことでもわかるような気がします。

 「俺の天下三分の計の話を聞いてなかったのか?このバカおやじ!」って思ったのかもしれませんし、「死んじゃあ、元も子もないじゃない!」って思ったのかもしれません。情にもろいとは思っていたが、まさかこれほどは・・・、って思ったのは間違いないでしょう。

 それでも隆中を訪ねてきた劉備を選んだのは、「このおやじの下でなら好き勝手にできるかもしれない!」って思ったからなのかなと・・・。

 孔明はおそらく曹操に仕えた場合や孫権に仕えた場合など、それぞれ大きな戦略を抱いていたと思います。

 ただ、その中でも最も劇的でスリリングなのはやはり劉備に天下をとらせることだったんじゃないかと思うんですよ。

 それに、徐庶が去った今、劉備陣営は脳みそ筋肉野郎的な関羽張飛みたいなのばっかりでしたからね。

 仕官するや、いきなり全体の方針を示す立場になることができそうでしたし・・・。

 孔明は自分を管仲楽毅になぞらえたくらいですから、思うがままに自分の戦略を世に問うてみたかったんじゃないでしょうか?

 それには負け癖がついてるくせに、配下には強力な武将を抱えてる目の前のお人好しおじさんが一番やりやすいよね!とも思ったに違いありません。

 とりあえず、劉備っていう人はその実力とは裏腹に、名声だけは世の中に知れ渡ってましたからね。

 孔明が後にそれこそ命がけでその恩に報いるべく粉骨砕身の働きをするのは、それ以降二十年余りに及ぶ君臣の関係から生まれたものだと思っています。

 劉備孔明の進言をはっきり退けたのは、先ほどの劉表死後の荊州の扱いと、関羽の敵討ちの色合いが強かった夷陵の戦いの是非だけだったように思います。

 それ以外、劉備は恐ろしいくらい従順な君主だったわけですから、孔明の人を見る目はなかなか優れていたんでしょうし、そうやって、思ってることを実行させてもらえるわけですから、楽しいに決まってますよね!

 戦乱の世に背を向けるように隆中に引きこもって天下の趨勢を傍観していた孔明っていうのは、学者的であり、きわめてリアリストでもあったと思うんですよ。

 だからはじめのうちは劉備という神輿を利用してっていう打算は絶対あったはずです。そういう男が、やがてその神輿から受けた恩に縛られて生きていくわけですから、歴史は面白いんですよね。

 関羽が死に、荊州を喪失した時、自分の立てた大戦略が音を立てて崩壊していくような気がしたでしょうし、間を置かず劉備が亡くなってしまった時には深い絶望の淵に叩き落されたことでしょう。

 それでも若年の忘れ形見を託された以上、孔明は自分自身を励まして職務に没頭したんだと思います。

 しかし、このころから孔明の政治も戦術もいささか硬質なものに変わっていったような気がします。

 それが北伐にも響いていたんじゃないかと思ったりするんですが、それはまた次回のお話ということで。

 

 

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