さるきちのしっぽ

おサルのおつむでゆる~くお話ししますので、よろしければお付き合いください。

163 やっぱりダメですね。

 みなさん、こんにちは。

 

 自分の夫をご主人と言われると「主従関係みたいでそう言われるのが嫌です」っていうツイートがなかなか新鮮でした。それに対する返事の中に「既にあなた方は主従関係だと認めているからだ」と鋭い指摘があり、なかなか痛烈な響きを奏でています。

 たまにこうした難癖に近い問題提起をしてくれる人のおかげで、当たり前のように認識していることを改めて見つめ直す機会が得られますので、あまりいじめてはいけません。まぁ、はっきり言ってこの時のご主人に対応する呼称は奥様とか奥さんであって、奴隷ではないことを皆さん理解しているから、問題にはならないんですけどね。

 で、もしもご主人がダメならどう呼べばいいのか考えてみました。ちなみに今回被害(?)にあったのはガスの点検に来たおじさんだったそうです。ご愁傷様です。

 旦那さん…これもダメですね。このイチャモン夫婦にかかっては奥さんがお妾さんになりかねません。ではご亭主はどうでしょう。やはり雇い主の匂いがするから駄目ですね。では夫君はどうでしょう。…意味が伝わらない恐れがあります。ハズ(ハズバンドの略)なら問題なさそうですが、ガスの点検のおじさんからその呼称が飛び出してくるのかどうか、聊か不安です。こうして考えるとなかなか難しい問題です。まさかに他人の夫を宿六と呼ぶわけにはいきません。それは妻たる人の特権です。これは夫という呼称も同様ですけどね。う~ん、パートナーって言っちゃうと未婚のカップルみたいですし、ご主人をファーストネームを呼ぶのもおかしいですし、なんだか馴れ馴れしくって、…ねぇ。配偶者はどうでしょう。なんか役所っぽい感じで、財産分与でもめてるような感じがするから、やっぱりダメですね。

 先ほどはイチャモン夫婦などと呼んでしまいましたが、思えばなかなかの難問を投げかけてきたものです。夫や妻という呼称に形ばかりの「さん」を付けてみましょうか。夫さん、妻さん、です。…なんだかもうどうでもよくなってきました。

 あんまり考えすぎて風邪をぶり返してもいけませんので、これくらいにしておきます。

 

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 ネットをみるとこのご夫婦(イチャモン夫婦っていうのは良くなさそうなのでやめます)の訴えに否定的な意見が多いようです。私も否定的な意見に賛成なんですが、冒頭にも申しましたように、こういう自分の価値観に真っ向から雪玉をぶつけてくる意見は、自分をふりかえって確認する動機付けにはなります。ですから、ネットでこのご夫婦の考えを否定する意見が多い中で、相手をけなすことなく誠実に反論を展開している人の態度からは紛れもなく、自省の形跡を見て取れます。そうした態度があって初めてこの雪玉は価値を得るのだと思っています。

 しかし、この雪玉の価値は今のところそれだけです。

 といいますのも、このご夫婦は選択制夫婦別姓を目指しておいでだとか。もうこの時点で賛成できません。仮に選択制夫婦別姓が認められたらどうでしょう。おそらく今度は夫婦別姓を求めていくでしょう。自分が戸籍上の姓で呼ばれることに苦痛を感じている方です。すなわちそれは悪ということになります。だから制度を変えるべきだと考えたご夫婦です。その苦痛がなくなったからといって、もういいやとなるとは思えません。今度は他人の夫がご主人と言われているのも嫌でしょうし、他人が夫婦同姓であることも我慢できなくなっちゃうと思われます。はっきり言って個人の望みを一般化して制度そのものを変えようとする人には同意できませんからね。

 どうしてそういうのかと言いますと、実は私も子供の頃に自分の名前にコンプレックスがありました。下の名前に信が付きます。これがどうしても嫌で、友達にも先生にも絶対呼んでほしくなかった時期があったんですね。高校に入り、野球部に同姓のヤツがいたのでどちらも下の名前で呼ばれるようになった頃には、どうでもよくなったんですけど、小中学正時代は、結構悩んだものです。しかし、下の名前を呼ばないでほしいと言ったことは一度もありませんでした。別に大した理由はありません。ただ、なんとなく自分が嫌だからっていう理由だけで、それがおかしい、やめてほしいということ自体おかしいことだと思っていたのかもしれません。

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 自分にとって不快なことや嫌悪感を持つことはたくさんあります。

 それなら、可能な限りそれを避けるか、相手にお願いするか、それに耐えられるよう自分を変えるか、をまずやるべきですね。病的なほどそれが苦痛ならばなおさらそうでしょう。制度を変えることができるとしても、途方もない時間が必要になりますからね。

 このご夫婦をイチャモン夫婦(復活!!)と、蔑むような言い方をしたのは、その後ガス会社に苦情の電話を入れたことを誇らしく語っていたからです。ガスの点検に来たガス屋のおじさんは何ら落ち度はないでしょ。このイチャモン夫婦にとって、夫をご主人と呼ばれたことは不快だったかもしれませんが、それはお客にお茶(緑茶)を出したところ、お客が「自分は緑茶が嫌いなのでコーヒーを出すのが当たり前だ!」と相手に食って掛かるようなものです。

 さらに申し上げれば、人間は他人の気持ちや考えを推測することはできても、はっきり把握することはできません。だから個々の人間は生きていけると思うんですが、逆に意見の一致や気分的一体感を確信した時、その人たちの感情は高揚するんじゃないですかね。でも、多くの場合、相手が何を望み、なにを嫌っているのかについて細かいところまではわかりません。初対面ならなおさらです。ですから、常識と言いますかセオリーみたいなものがあると思います。お互いそれを踏み外さないように気を付けて行動することにより、無用の争いや不愉快を避けていると思うんです。さらには、時折不快に感じることがあっても、出来るだけその関係を壊さないように耐え忍ぶようなこともしばしばありますよね。社会はそうしたある程度の苦痛に耐えるっていうコストを払うことで維持されているとは思いませんか?

 もっとも、そうした人々の少しずつの犠牲に付け入るような人間はいますし、今回のように、お叱りを覚悟であえて言えば、個人の好みや我儘を一般化して社会におしとける人も徐々に増えているように思います。

 繰り返しますが、こうした動機で生まれた意見が果たす役割は、当たり前のように思ったりしてきたことを改めて見つめ直すきっかけになる、それだけです。

 

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 時代が変わり、何でもできる自由を手にしたようでありながら、実際には他人とのかかわりなしでは生きていけない社会になっています。少なくとも日本はそうだと思います。たった一人で、好きな時に山や海に行って食料を得て、好きな時に好きなことをするような生き方はできませんよね。世界を見渡せば、未だにそうした生き方をしている人がいるかもしれませんが。で、そんな日本で生きていると、文明の恩恵を受ける代わりに思い通りには生きていけない不満を抱えることになりますね。

 多くの人が、適当なところで折り合いをつけて生きていることを、そんなに悪いこととは思いませんが、中にはどうしても我慢できない方もいらっしゃるようです。まぁ、それもまた、今の世の中におけるスパイスと考えれば我慢できないこともないのかもしれません。度を越えると、毒になっちゃいますけどね。